勤務先企業内で公用語を英語化!いまさら勘弁して!

      2017/05/26

世の中、社内公用語を英語に向けて準備企業が増えました。日本風土にありがちな右へ倣え方式の習慣により、我が社も他人ごとではないと、戦々恐々と日々のお仕事をこなしているビジネスマンも多いと思います。

今日は、楽天やユニクロの行ったような、社内公用語英語化について、その本質について考えてみたいと思います。

社内公用語英語化の本質について

楽天やユニクロの行った社内公用語英語化の本質は、多国籍な社員からなるグローバルカンパニーの共通言語の設定に他なりません。

企業は合議体によって意思を形成して、企業の意思として、営利活動を行っていきます。そこで企業の構成員である社員が,共通のコンセンサスのある言語を話すことができなければ、合議によって決断することができなくなります。

たとえば、転職社員からなる企業では、社員の背景も言葉使いも異なることから、言葉を会社用に定義づけする企業もめずらしくはありません!「善意」という言葉は、「徳がある」と言う意味と、「あることを知らない」という意味でも使われます。ただし企業内では後者の「知らない」意味で使うといった具合です。

二人の社員が、同じ「善意」という言葉を使用して、同じ「あることを知らない」という言語定義で議論して、同じ意図の下に決断が可能になります。

同様のことは、言語についてもあてはまります。ある社員は日本語のみしか話せなく、他の社員は英語のみしか話せないと、同じ意図の下に、決断ができなくなります。

企業の中で複数の言語が使用されているとき、公用語である会議での言語や企業文書などについて、英語を言語として選択することを、社内公用語英語化といいます。社員の国籍が様々である日本企業のうち、英語を公用語とする企業が増えてきています。楽天やユニクロなどを筆頭に、日産、ソフトバンクなど、グローバル企業といわれる代表的な会社がここ数年、次々と英語を公用語化に向けて準備しています。

日本企業の中でも、社員の国籍が、グローバル化している企業の数は、全体の20%にも満たない数です。そこで、ほとんどが日本人社員で、海外クライアントが、多少いる程度の企業は、社内公用語英語化に対して、どういう対応をすべきかが問われます。右へ倣え方式で、楽天やユニクロの方式の社内公用語英語化を模倣しても、規模もスケールメリットも異なるので、うまくいかないことは、自明の理だからです。

 

もしあなたの勤務先の会社が、社内公用語英語化の政策を実施したら?

社員の国籍が多様化している現状で、英語を話す社員と日本語や他の言語を話す社員がいる場合、公用語化することにも一理あります。しかし社員の国籍が、日本国籍のみで、社内で使用される言語も日本語のみだったとしたら、まったくメリットがない政策といえます。

なぜならば、このような場合、そもそも企業内の公的な側面で、言語を英語で統一する必要性がないからです。

これに対しては、国内市場が縮小化している以上、将来の海外市場開発にむけての、設備投資の一環として、社内公用語を英語化するのも企業の選択肢であるとの見解もあります。しかしそういう意図なら、社員の自己啓発として、英語の勉強をバックアップすれば良いだけのことです。

将来の設備投資として、会社の公的な場面における言語を英語に変える必然性はどこにも見つかりません。業務の円滑な遂行を妨げるだけです。市場のグローバル化に備えて、国内市場をターゲットにした製品やサービスを扱う企業も英語化すべしとする見解は、一面的なものの見方です。

英語よりも、ライバル企業が、人件費の安い中国や東南アジアへ工場を移籍して、そこで製造された安い製品が逆輸入で国内に入る事態こそ憂慮すべきだからです。このようなケースでは、価格よりも製品の付加価値を高めるべき、企業努力が必要です。英語化にむけて貴重な時間を浪費すべきではありません。

そうだとしても、あなたも企業に勤務する以上は、組織人です。会社が英語を公用語化するという方針を打ち出したら、これに従うのが組織人としてのモラルです。

ただ、暫定期間もなしに、急きょ翌月から、社内公用語を英語とし、公的な会議や文書にて、英語を使用できなかった社員に対して、人事上の処分を課したりするのは、労働法上の問題点が生じます。

会社側も労働法に反してまで、社内公用語を英語化する強行策にでることは、ほぼないといっていいでしょう!

むしろ公用語化にむけて、社内研修や英語教育プログラムへの補助金支給など、社員の英語の習得に向けて、バックアップ体制をとるケースが多いと考えられます。

ビジネスマンの自己啓発として、前向きにとらえるのも、組織人としてあるべき姿かもしれません。

グローバル化に備えて、英語を日本国の公用語とすべき?

さらには、企業のみならず国そのものも、グローバル化に備えて、英語を国の公用語とすべきとの見解もあります。この見解によれば、国民が英語を公的な場面で、話したり、公的な書類を英語で読み書きしたりするのが、グローバル社会での必然性と捉えます。

しかしグローバリズムには、歯止めが、かかりつつあります。イギリスのEU離脱や、トランプ大統領のTPP離脱など、市場の国境化に向かっての動きとみれます。

仮に、グローバリズムが今後、発展すると考えたとしても、日本が国内市場を外資から守るのは、関税でも、条約でもなく、日本語という言語による縛りであると考えられます。たとえば、英語圏の電化製品に書かれた、英語の取扱い説明書を読んでも、英語という障壁があるからこそ、理解ができず、日本製品を購入するということも起こり得るのです。

公用語化に向けて、2020年から、公立の小学校でも、小3時から、英語に慣れ親しむ英語カリキュラムが採用されています。しかし小学校の低学年のうちは、母国語を確立する時期です。そのような時期に英語も同時並行で指導するのは、十分な思考力をもたないまま中途半端なバイリンガルを育成してしまうとの見解もあります。

この点、英語を日本国の公用語としてしまうと精神まで、英語化してしまうといった理由から、反対する見解もあります。確かに、日本語でのコミュニケーションは、高コンテキスト型といわれます。おなじ発音である使命や氏名、指名を、会話の流れから、聞き手の側で特定の意味に察して解釈するものです。この察するという日本語の特殊性から、思いやるとか、おもてなしの精神に繋がりやすくなるのも事実です。

これに対して、英語の場合は、話し手の側で、発音を正確にして、一語一語の単語の意味を使い分けて、自分の意思や主張を相手に伝えるコミュニケーションです。見解や主張が揃わないときは、公正なルールや規範によって、事後的に主張の正義を調整する精神につながりやすいです。

このような両者の違いから、英語を公用語として、幼少期から、教育することは、日本固有の察する精神を英語化して、権利主張型の国民性に変えてしまうとの懸念は確かに成り立つかもしれません。

権利主張型のコミュニケーションが主流になると、ものつくりやサービスの在り方にも影響がでてきます。従来日本の車は、部品会社とメーカーの摺合せによって、部品から、独自のパーツで組み合わせてつくるところから、世界でも優秀な車と評価される製品を作ることが可能でした。この摺合せ型のコミュニケーションは、お互いが思いやる日本語の特性によって行われていた可能性があります。

世界に向けてものつくりの国民性を自慢できた、日本人ですが、公用語が英語化することによって、国民の生産力を低下させる恐れがあります。現に英語を公用語とするシンガポールや韓国などの国力はそれほど高くはないです。

以上からグローバル化に備えるなら、より一層強い理由から、英語を公用語化すべきではないのです。

 

 

 

 

 

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